『サルチネス』は、古谷実によるシニカルコメディです。主人公は31歳の中丸タケヒコ。関東甲信越のとある田舎町で、長年まともに社会と関わることなく暮らしてきた男です。
タケヒコは14年間も引きこもり生活を続け、自分なりにはさまざまな「修行」に励んできました。しかし周囲から見れば、仕事もせず、社会経験もほとんどない“残飯おとこ”。そんな彼が、自分の存在が愛する妹の幸せを邪魔しているのではないかと考え、ついに自立を決意します。
ところが、長年社会から離れていた31歳が突然うまく生きられるはずもありません。東京へ出て仕事を探し、そこで妙な人間たちと出会い、便利屋まで始めますが、何をやっても思い通りには進みません。それでもタケヒコなりに「人を愛すること」「自分で生きること」を覚えようともがいていきます。
『サルチネス』の魅力とは?
『サルチネス』で何より強烈なのが、中丸タケヒコという主人公です。長年引きこもっていた人物というと、自信を失い、他人の目を恐れている姿を想像しがちですが、タケヒコは少し違います。
社会経験がほとんどないにもかかわらず、妙なところで自信満々。独自の理屈を持ち、他人へ遠慮することも少なく、相手を振り回します。そのため自立を目指している本人以上に、周囲の人間が迷惑を被ることもしばしばです。
それでもタケヒコには、妹を大切にしたいという思いだけはあります。自分が妹の人生の邪魔になっているのなら離れたほうがいい。その発想は極端ですが、他人のために初めて自分の生活を変えようとすることが、本作における大きな一歩になっています。
東京でタケヒコが出会う人々も、決して順風満帆に生きている人ばかりではありません。住所不定無職となった谷川俊平や、苦学生の河合タイチなど、それぞれに問題や弱さを抱えています。
そして成り行きから始める便利屋の仕事でも、まともな依頼ばかりが来るわけではありません。タケヒコ自身が他人の気持ちをうまく理解できず、余計に状況を悪化させることもあります。
それなのに、不思議なことに彼が関わった人たちは少しずつ変わっていきます。タケヒコが誰かを立派に導くわけではありません。むしろ本人は最後までかなり面倒な男です。それでも、その無遠慮さや妙な真っすぐさによって、他人の停滞していた人生まで動いてしまいます。
ここが『サルチネス』の面白いところで、「成長したから立派な人間になる」という単純な物語ではありません。タケヒコはタケヒコのままです。失敗し、迷惑をかけ、変な理屈を語ります。それでも以前よりほんの少しだけ誰かを思いやれるようになる。その小さな変化が妙に胸へ残ります。
また、古谷実らしい笑いと人間の情けなさの混ざり方も魅力です。どうしようもなくくだらない会話で笑わせた直後に、「人生からは逃げられない」とでも言うような現実を突然突きつけてきます。
第3巻では、一度上京して自立しようとしたタケヒコがあっけなく故郷へ戻りながらも、妹のためにもう一度動こうとします。自立は一度決意すれば成功するようなものではなく、失敗して戻ってきてもまた始めればいい。その不格好さが本作らしいところです。
最終巻でも、タケヒコが完璧な社会人になったり、誰もが羨む人生を手に入れたりするわけではありません。それでも周囲の人々はなぜか以前より少し幸せになっている。講談社が最終巻を「残飯おとこは残飯なままなのに」と紹介しているように、「変わらないままでも人は誰かとつながれる」という余韻があります。
『サルチネス』は『週刊ヤングマガジン』で2012年から2013年まで連載され、全4巻で完結。短い作品ながら、引きこもり、自立、家族、友情、恋愛、孤独といったテーマを、古谷実らしいシニカルな笑いの中に詰め込んでいます。
ここからは、『サルチネス』のように、社会とうまく噛み合わない人間、冴えない大人の再出発、孤独と人とのつながり、そして笑えるのに妙に人生へ刺さってくる漫画を中心に5作品紹介します。
おすすめの作品を詳しく紹介
1.『グリーンヒル』
古谷実による青春バイクギャグ漫画です。怠惰な大学生活を送っている19歳の関口が、バイクに乗る女性への一目惚れをきっかけに、バイクチーム「グリーンヒル」へ飛び込みます。
そこで出会うのは、人生の答えを知っている格好いい大人たちではありません。年齢だけは大人でも、将来に迷ったり、恋愛に振り回されたり、しょうもないことで悩んだりする人物ばかりです。
『サルチネス』で、社会的には立派とは言えない人間たちが集まり、くだらない時間を過ごしながら少しずつ人生を動かしていくところが好きだった人には特におすすめです。同じ古谷実作品らしい笑いと切なさを味わえます。

2.『僕といっしょ』
こちらも古谷実による青春ギャグ漫画です。母親を亡くし、家を飛び出した兄弟・すぐ夫といく夫が東京へ向かい、イトキンをはじめとする行き場のない少年たちと出会います。
頼れる大人もお金もなく、主人公たちは何度も間違えます。それでも一緒に暮らす人間ができ、しょうもないことで笑いながら、何とか次の日まで生きていきます。
『サルチネス』で、まともな人生から外れてしまった人物を突き放すのではなく、情けなさごと描く古谷実の視線が好きだった人におすすめです。「立派じゃなくても誰かとつながって生きていける」という部分にも共通した温かさがあります。

3.『わにとかげぎす』
古谷実によるヒューマンドラマです。32歳の富岡ゆうじは、深夜のスーパーで警備員として働きながら、友人も恋人もほとんどいない孤独な生活を送っています。
ある夜、「友達が欲しい」と突然思ったことから、彼の日常は少しずつ変わります。隣人の羽田との出会いをはじめ、人との関係が増えるほど、それまで無風だった人生へさまざまな出来事が入り込んできます。
『サルチネス』で、30代になってから人とのつながりや人生を一から作ろうとするタケヒコが好きだった人には非常に相性があります。社会とうまく噛み合えない男性の孤独を、笑いと不安の両方から描いた作品です。

4.『ボーイズ・オン・ザ・ラン』
花沢健吾による青春ヒューマンドラマです。主人公・田西敏行は、仕事にも恋愛にも自信を持てない冴えない会社員。恋をきっかけに「このままの自分では嫌だ」と人生を変えようとします。
しかし決意したからといって、突然格好いい男になれるわけではありません。勇気を出して失敗し、恥をかき、逃げたくなりながら、それでも少しずつ前へ進もうとします。
『サルチネス』で、タケヒコが自立を決意したのに簡単には変われず、何度も失敗する姿が好きだった人におすすめです。格好悪さを隠さず、その中から人間の意地や成長を見せるところに共通した魅力があります。

5.『路傍のフジイ』
鍋倉夫によるヒューマンドラマです。会社員の藤井は、派手な趣味も華やかな交友関係もなく、周囲から見れば「つまらなそうな人」に見える中年男性です。
しかし本人は、他人からどう評価されるかにそれほど振り回されず、自分なりの小さな楽しみを持って暮らしています。そんな藤井と接した人々のほうが、自分の価値観や生き方を見直していきます。
『サルチネス』で、主人公本人が劇的に変わるのではなく、その人物と関わった周囲の人々が少しずつ変化していくところが好きだった人におすすめです。社会的な成功だけが人生の価値ではないと感じさせてくれます。

まとめ
『サルチネス』は、古谷実によるシニカルコメディです。14年間引きこもってきた31歳の中丸タケヒコが、愛する妹の幸せのため自立を決意し、東京へ出て仕事や人間関係へ挑戦していきます。
古谷実らしいダメな若者と大人たちなら『グリーンヒル』、行き場のない人々のつながりなら『僕といっしょ』がおすすめです。30代から孤独な人生を動かす『わにとかげぎす』、不器用な男の再出発なら『ボーイズ・オン・ザ・ラン』、周囲の価値観まで変えてしまう不思議な主人公なら『路傍のフジイ』も相性抜群です。
人は、一度決意しただけで立派にはなれません。タケヒコも最後まで失敗し、周囲へ迷惑をかけ、どこかズレたままです。それでも誰かの幸せを願い、自分なりに外の世界へ一歩ずつ踏み出していく。『サルチネス』の、どうしようもない人間を笑いながら最後には少し好きになってしまう物語に惹かれた人なら、今回紹介した5作品にも不格好だからこそ忘れられない人物たちが待っています。

