『零落』は、浅野いにおによる全1巻完結の漫画です。主人公は、長年続けてきた連載を終えた漫画家・深澤薫。脇目もふらず漫画を描き続けてきた深澤でしたが、作品が完結して久しぶりに立ち止まったとき、自分の中に残されていたのは達成感ではなく、残酷なほどの空虚感でした。
次回作のアイデアは浮かばず、読者からは厳しい言葉を浴び、担当編集者とも漫画に対する考え方が噛み合いません。さらに漫画編集者として忙しく働く妻との関係も冷え切り、かつて売れっ子だった漫画家は、自分が世の中から必要とされなくなっていくような感覚に襲われます。
そんな鬱屈した生活の中、深澤は風俗店で「ちふゆ」という猫のような目をした女性と出会います。自分を深く詮索しようとしない彼女との束の間のつながりに縋るようになる深澤。創作者として成功した人間のその後を通して、仕事、才能、夫婦、承認欲求、孤独といった問題を容赦なく描いていきます。
『零落』の魅力とは?
大きな特徴は、「夢を叶えた後」を描いていることです。漫画家を目指す物語なら、デビューや連載獲得が一つのゴールとして描かれることがあります。しかし深澤はすでに漫画家として成功し、長期連載まで経験しています。それでも幸福になれたわけではありません。
連載中は締め切りに追われ、立ち止まって人生について考える暇さえなかった。しかし連載が終わった瞬間、それまで仕事によって見えなくなっていたものが一気に押し寄せてきます。「漫画を描いていない自分には何が残っているのか」という問いが、深澤を追い詰めていきます。
創作者と読者の関係も生々しく描かれています。漫画家にとって作品は長い時間を費やして作り上げたものですが、読者から見れば数ある娯楽の一つです。SNSでは簡単に作品が評価され、売れる作品を求める編集者と、自分が描きたいものとの間にもズレが生まれる。創作を仕事にしたからこそ直面する現実が描かれています。
深澤自身が決して「かわいそうな主人公」として描かれていないところも重要です。自分が苦しんでいる一方で、周囲の人間を傷つけたり、相手を見下したり、自分自身の問題から逃げたりもします。読者が簡単に感情移入できる人物ではないからこそ、その醜さや弱さが妙に現実的に感じられます。
妻との関係にも同じことが言えます。夫婦のどちらか一方だけが完全に悪いという単純な構図ではなく、仕事や価値観の違い、積み重なった小さな不満によって二人の距離が開いています。近い存在だからこそ信じ切れず、反対に自分のことを知らない相手との一時的なつながりへ逃げてしまう。その矛盾がタイトルの「零落」に重なっていきます。
全1巻という短さも本作の魅力です。成功、停滞、夫婦関係、性、孤独、創作への執着といった重いテーマを246ページに凝縮し、深澤という一人の男が漂流していく姿を一気に描いています。2023年には竹中直人監督、斎藤工主演で実写映画化されました。
ここからは、『零落』のように、創作することの苦しさや、夢と現実のギャップ、仕事によって自分の価値を見失っていく人間を描いた漫画を中心に5作品紹介します。
おすすめの作品を詳しく紹介
1.『かくかくしかじか』
東村アキコによる、自身が漫画家になるまでの日々を描いた自伝的漫画です。美大を目指していた高校生時代から漫画家として歩き始めるまでを、恩師である絵画教室の先生・日高健三との関係を中心に描いています。
漫画家になるという夢の華やかな部分だけではなく、才能への不安、努力できない自分への苛立ち、仕事として絵を描くことの厳しさなども描かれます。成功した現在の作者が過去の自分を振り返る構成だからこそ、後悔も強く伝わってきます。
『零落』で、漫画を描くことが人生そのものになってしまった人間の苦しさに惹かれた人におすすめです。『零落』が「漫画家として成功した後の空虚さ」を描く作品なら、こちらは「漫画家になるまで」と、その道を選んだ人間が背負うものを描いた作品として楽しめます。

2.『海が走るエンドロール』
たらちねジョンによる、夫を亡くした65歳の女性・茅野うみ子が、映画を作る側になりたいという自分の気持ちに気づき、映像制作の世界へ踏み出していく漫画です。
年齢を重ねてから新しい創作を始める主人公を通して、「何かを作りたい」という感情がどこから生まれるのかが丁寧に描かれます。才能や評価だけではなく、自分がなぜ作るのかという根本的な問いと向き合っていく作品です。
『零落』で、創作者が自分と作品との関係を見失っていくところが印象に残った人におすすめです。創作に疲れ切った人間を描く『零落』とは逆方向から、もう一度何かを作り始める人間を描いているため、並べて読むと創作という行為の違った側面が見えてきます。

3.『ブルーピリオド』
山口つばさによる、美術に目覚めた高校生・矢口八虎が東京藝術大学を目指し、その後も美術の世界でもがいていく青春漫画です。要領よく生きてきた八虎が、一枚の絵との出会いをきっかけに初めて本気でやりたいことを見つけます。
しかし、好きなものを仕事や進路に結びつけた瞬間から、他人との比較や評価、才能への不安が始まります。「好きだから続けられる」という単純な話ではなく、好きだからこそ評価されないことが苦しくなるという創作者の矛盾が描かれています。
『零落』で、創作と自己評価が切り離せなくなっている深澤の姿に興味を持った人におすすめです。年齢や立場は大きく異なりますが、「作品の評価=自分自身の価値」のように感じてしまう創作者の苦しさという点で通じるものがあります。

4.『アオイホノオ』
島本和彦による、漫画家を目指す青年・焔燃を主人公にした青春漫画です。1980年代初頭の大阪芸術大学を舞台に、自信だけは巨大な焔が、周囲にいる才能あふれる若者たちに衝撃を受けながら漫画家への道を進んでいきます。
コメディ色の強い作品ですが、「自分には才能があるはずだ」という自意識と、「本当にすごい人間」を目の前にしたときの敗北感が容赦なく描かれます。漫画を描くことが好きだからこそ、他人の才能や成功を素直に喜べない感情まで笑いに変えているのが魅力です。
『零落』で、漫画家という仕事にまとわりつく自尊心や嫉妬、承認欲求の部分が面白かった人におすすめです。雰囲気は対照的ですが、創作者の格好悪い感情まで隠さないという点では意外なほど共通しています。

5.『おやすみプンプン』
同じ浅野いにおによる、少年・プンプンの人生を小学生時代から追っていく長編漫画です。家族、恋愛、友人、仕事、夢といったさまざまな問題を経験しながら大人になっていく一人の人間を描いています。
子どものころに思い描いていた未来と、実際に大人になった自分との距離。誰かに愛されたいのに相手を傷つけてしまったり、自分がうまくいかない理由を周囲に求めてしまったりする人間の弱さが徹底的に描かれます。
『零落』で、主人公を美化せず、醜さや身勝手さまで見せる浅野いにおの人物描写に惹かれた人には特におすすめです。創作漫画ではありませんが、「自分の人生がこんなはずではなかった」という感覚を、より長い時間軸で描いた作品として読むことができます。

まとめ
『零落』は、長年続けた連載を終えた漫画家・深澤薫が、成功の先に待っていた空虚感の中で漂流していく浅野いにおの全1巻完結作品です。漫画家という夢を叶えた人間を主人公にしながら、成功すれば人生の問題が解決するわけではないという現実を突きつけます。
漫画家になるまでの創作と後悔なら『かくかくしかじか』、人生の途中から再び創作へ向かう物語なら『海が走るエンドロール』がおすすめです。評価と才能に苦しむ若い創作者なら『ブルーピリオド』、漫画家の自意識や嫉妬をコミカルに描く『アオイホノオ』、浅野いにおによるさらに濃密な人間の弱さを読みたいなら『おやすみプンプン』も相性のいい作品です。
夢を叶えることと、その後も幸せに生きられることは同じではありません。自分の価値を仕事や評価だけに預けてしまったとき、それを失った人間には何が残るのか。『零落』で描かれる創作者の空虚さや、人間の格好悪さまでさらけ出す物語に惹かれた人なら、今回紹介した5作品もぜひ読んでみてください。

