「聞こえない自分に、漫才なんてできるのか」ではない。
『ローワライ』がおもしろいのは、その問いをかなり早い段階でひっくり返してしまうところです。
聴覚障害のある大学生・平里が、手話通訳のアルバイトをしている嶋に連れられて、生の漫才を見る。
そこで平里が出会うのは、自分とは遠い世界の娯楽ではありません。
怒りも、違和感も、日常で「なんでやねん」と思ってきたことも、笑いに変えれば誰かへ届けられるという感覚です。
そして陽気で押しの強い嶋とコンビを組み、「ローワライ」として舞台へ立つ。
この物語には、夢を見つけた若者が努力する王道の熱さがあります。
でも、それだけではありません。
漫才は本来、言葉の速度、間、声の強弱、観客の反応といった「音」と強く結びついた芸です。
その世界へ、音声だけではないコミュニケーションを日常としてきた平里が入っていく。
すると「漫才とは何か」「笑いはどうすれば伝わるのか」という、普段なら意識しない部分まで見えてきます。
『ローワライ』が描いているのは、ハンディキャップを努力で克服する物語というより、自分が生きてきた経験そのものを表現へ変える物語です。
今回は、そんな本作の魅力を基準に5作品を選びました。
お笑いを題材にした作品だけでなく、二人だから生まれる表現、観客へ届ける技術、自分にしかできないものを探す過程、そして「伝わる」とは何なのかまで深く描いた漫画を紹介します。
『ローワライ』の魅力とは?
『ローワライ』で最初に強く残るのは、平里と嶋がまったく違う人間だということです。
平里は、自分がどう見られるかを意識せざるを得ない場面を積み重ねてきた人物です。
一方の嶋は、人との距離へずかずか入っていくような明るさがあり、平里をお笑いの世界へ半ば強引に引っ張っていきます。
この二人がコンビになることで、単に仲のいい友達同士では作れない緊張が生まれます。
漫才では、片方だけがおもしろくても完成しません。
ネタを書く。
相手の癖を知る。
どこで間を取るか決める。
自分が投げたものを、相方がどう返すか信じる。
コンビとは、ある意味で非常に特殊な共同作業です。
『ローワライ』では、そこへさらに手話や視覚的な表現が入ります。
つまり平里と嶋は、「一般的な漫才の型へ平里を合わせる」だけでは足りません。
二人にしか成立させられない漫才の形を一から探さなければならない。
この試行錯誤が、本作を単なる勝ち上がり型のお笑い漫画とは違うものにしています。
そしてもう一つ重要なのが、平里の聴覚障害を感動の材料だけにしないことです。
平里が日常で感じてきた苛立ちやズレには、笑えないものもあります。
でも本人がそれを舞台へ持ち込み、「自分のネタ」として扱った瞬間、意味が変わる。
他人から説明される存在だった人間が、自分自身をどう見せるか決める側に回るのです。
これはかなり強い反転です。
笑われることと、笑わせることは似ているようでまったく違います。
前者では視線を向けられる側ですが、後者では観客の視線を自分で操ります。
平里がお笑いへ惹かれる理由には、「自分の経験を自分の言葉で扱える」という解放感もあるように感じられます。
さらに舞台は、客が笑ったかどうかという非常に残酷な結果が出る場所でもあります。
どれだけ苦労して作ったネタでも、伝わらなければ笑いは起きません。
逆に、たった一つの表情や間で会場全体が爆発することもある。
だから『ローワライ』のステージには、スポーツ漫画の試合に近い緊張があります。
でも競っているのは速さや力ではなく、「相手の頭の中へ何かを届けられるか」です。
日常では伝わらないことがある。
舞台でも失敗する。
それでも方法を変えて、もう一度伝えようとする。
その繰り返しが、本作の青春そのものになっています。
おすすめの作品を詳しく紹介
1.『ショーハショーテン!』
『ローワライ』を読んで、お笑いコンビがネタを作り、舞台へ上がり、観客の反応を読みながら勝負するところに惹かれたなら、まずおすすめしたいのが浅倉秋成原作・小畑健漫画の『ショーハショーテン!』です。
中心となるのは、ネタを考える力はあるものの人前が得意ではない四十万畦道と、表現力に長けた元天才子役・東片太陽。
能力の方向がまるで違う二人がコンビを組み、お笑いの頂点を目指します。
この「一人では足りない」という構造が、『ローワライ』とよく似ています。
畦道だけなら頭の中におもしろいものがあっても、客席まで届かない。
太陽だけなら抜群の演技力があっても、それを乗せるネタが必要になる。
二人の才能が合わさったとき、初めて一つの漫才になる。
平里と嶋も同じです。
平里の経験や視点は強烈な武器になりますが、それを客席まで届けるためにはネタとして組み立てる必要があります。
嶋には、平里とは違うコミュニケーションの経験があります。
相方とは、自分と似た人を選ぶことではなく、自分一人では届かなかった場所まで表現を運んでくれる人なのだと感じられます。
さらに『ショーハショーテン!』では、「何がおもしろいのか」をかなり細かく分解します。
ネタの構造、演じ方、客層、出番順、会場の空気。
同じ台本でも演者や状況が変われば笑いの量が変わる。
お笑いが才能だけではなく技術でもあることが見えてきます。
『ローワライ』で「この二人はどうやって自分たちだけの漫才を作るんだろう」と考えながら読むのが楽しい人には、最もまっすぐおすすめできる作品です。
2.『べしゃり暮らし』
森田まさのりの『べしゃり暮らし』は、お笑いを「青春の夢」だけではなく、人生そのものを食い尽くしかねない仕事として描いた作品です。
笑わせることが大好きな上妻圭右と、芸人経験を持つ辻本潤。
二人が「べしゃり暮らし」を結成し、プロの芸人を目指していきます。
『ローワライ』との大きな共通点は、笑いに変えていいものと、簡単には笑いにできないものの境界まで踏み込むことです。
芸人は、自分の失敗や家庭の事情、人間関係さえネタへ変えることがあります。
しかし、自分には笑えることでも相手には傷になるかもしれない。
逆に、触れてはいけないと思われていたことを本人が笑いにすることで、初めて救われる場合もあります。
『ローワライ』の平里が、自分の経験をどこまで漫才へ持ち込むかという問題にも、この難しさがあります。
「障害をネタにするなんて」と周囲が勝手に決めることと、本人が「これは俺の経験だから俺が笑いにする」と選ぶことは同じではありません。
『べしゃり暮らし』は、笑いが人を救うこともあれば、残酷な刃物になることもあると描きます。
さらにコンビ関係もかなり生々しい。
仲がいいだけでは続かない。
笑いの方向が違えば衝突する。
才能への嫉妬もある。
相方を信じているからこそ腹が立つこともある。
それでも二人で舞台へ立つ。
『ローワライ』の学生お笑いとしての爽やかな熱さから、もっと泥臭い芸人の世界まで読みたくなった人におすすめです。
3.『あかね噺』
末永裕樹原作・馬上鷹将作画の『あかね噺』は、漫才ではなく落語を題材にした作品です。
主人公・桜咲朱音は、父の落語に魅せられ、自らも噺家として真打を目指します。
『ローワライ』と似ているのは、「言葉を発すれば伝わるわけではない」という感覚です。
落語家が高座で使えるものは、基本的には一人の身体と言葉だけ。
それなのに上手い噺家が演じれば、何人もの登場人物がそこにいるように見え、何もない場所に町並みまで浮かびます。
つまり重要なのは、何を言うかだけではありません。
どう見せるか。
どこで止めるか。
客が今何を想像しているか。
その客席との見えないやり取りが、高座を成立させます。
これは『ローワライ』にも非常に近い部分です。
平里たちは、一般的な音声中心の漫才とは異なる手段を使うからこそ、「観客へ届くとはどういう状態なのか」をより強く考えなければなりません。
また『あかね噺』では、同じ演目を複数の噺家が演じても、まったく違うものになります。
技術だけでなく、その人の性格、人生、声、身体、客席の読み方が芸になります。
平里が目指す「ろう者だからこそできる笑い」と同じく、自分の属性を消して一般的な型へ近づくのではなく、「自分だからできる形」へ育てていくことに価値があります。
舞台へ上がる怖さと、会場全体を自分の世界へ引き込んだ瞬間の快感。
『ローワライ』でそこに胸が熱くなった人なら、ジャンルが違っても『あかね噺』の高座には同じ興奮を感じられると思います。
4.『聲の形』
大今良時の『聲の形』は、今回紹介する中で唯一、お笑いや舞台を中心にした漫画ではありません。
それでも『ローワライ』好きに入れたい理由があります。
それは、「コミュニケーションとは、言葉が存在することではなく、相手へ届こうとすることだ」という部分を強烈に描いているからです。
物語の中心にいるのは、耳の聞こえない西宮硝子と、彼女を小学生時代にいじめてしまった石田将也。
二人の間では、手話、筆談、声、表情など、さまざまな方法で意思が行き交います。
けれど、同じ言語を使えれば必ず分かり合えるわけではありません。
聞こえる者同士でも本心は伝わらない。
手話を覚えても、相手の感情を理解したことにはならない。
逆に、言葉が十分でなくても、相手を知ろうとする行動が伝わることがあります。
この感覚は『ローワライ』にも通じます。
平里と嶋は手話を使って意思疎通できる。
でも、相方として本当に理解し合えるかは別の問題です。
さらに漫才になれば、その二人のやり取りを今度は観客へ届けなければならない。
コミュニケーションが一対一から舞台全体へ広がっていくのです。
もちろん作品のトーンは大きく違います。
『聲の形』にはいじめや孤立など、かなり苦しい場面があります。
だから「聴覚障害が出てくるから似ている」と簡単に並べたい作品ではありません。
むしろ、『ローワライ』の平里が自分自身を語る側、笑わせる側へ立っていることの新鮮さをより強く感じるために読む価値があります。
伝えること、聞くこと、そして相手を見ることについて深く考えたい人におすすめです。
5.『BLUE GIANT』
石塚真一の『BLUE GIANT』は、仙台の高校生・宮本大が生のジャズに衝撃を受け、「世界一のジャズプレーヤーになる」と決めるところから始まります。
平里が初めて劇場で漫才を見た瞬間が好きだった人には、この作品の始まりもかなり刺さると思います。
誰かの本気の表現を目の前で浴びて、「自分もこっち側へ行きたい」と人生の向きが突然変わる。
理屈より先に、身体が動いてしまう。
大にとって、それがジャズです。
平里にとって、それが漫才です。
『BLUE GIANT』でおもしろいのは、大が最初から技巧的に優れた演奏者ではないことです。
楽譜も十分読めず、知識も経験もない。
でも、自分が音に込めたいものだけは圧倒的に強い。
そこから技術を身につけ、仲間と組み、初めて自分の感情が他人へ届く演奏になっていきます。
ここにも『ローワライ』と共通するテーマがあります。
表現は、「自分が言いたいことがある」だけでは成立しません。
受け取る人がいる。
その人へ届く形へ変える必要がある。
だから練習する。
でも技術だけになれば、その人である必要がなくなる。
技術と個性の両方が揃った瞬間、初めて観客の心を掴む。
また大は、ジャズを始めたことで仲間を得ます。
一人で練習していた少年が、ピアノやドラムと演奏することで、自分一人では出せなかった音へ到達していく。
平里と嶋も、相方がいるからこそ一人では作れなかった笑いを作ります。
「自分だけの表現」と「誰かと作る表現」が矛盾しないところまで含めて、『ローワライ』と相性のいい作品です。

まとめ
『ローワライ』には、かなり分かりやすい目標があります。
漫才で頂点を目指す。
でも、本当におもしろいのは順位だけではありません。
平里が漫才と出会うことで、それまで自分の中にあった怒りや違和感の使い道が変わっていくところです。
「こんなことで困った」と話せば説明になる。
「かわいそうだった」と語られれば感動物語にもなる。
でも、それを本人がネタとして舞台へ持っていき、客席を笑わせれば、まったく別のものになる。
自分の人生をどう語るかを、自分で選び直せるのです。
そして、その作業を一人ではなく嶋とやることに意味があります。
相手とズレる。
失敗する。
ネタを直す。
もう一度舞台へ立つ。
その繰り返しの中で、二人は漫才師になっていくと同時に、相方になっていきます。
今回紹介した『ショーハショーテン!』には異なる才能を持つ二人が一つの笑いを作る過程、『べしゃり暮らし』には人生そのものをネタにする芸人の厳しさ、『あかね噺』には自分にしかできない表現を磨く舞台の世界、『聲の形』には伝えることと理解することの難しさ、『BLUE GIANT』には初めて本物の表現に触れた衝撃から人生が動き出す熱さがあります。
五作品とも方向は違います。
でも、その中心には「自分の中にあるものを、どうすれば他人へ届けられるのか」という問題があります。
『ローワライ』を読んで、平里が笑わせた瞬間だけでなく、そこへ至るまでに嶋と方法を探している時間まで好きになった人なら、今回の5作品にもきっと夢中になれると思います。
笑いが起きる一瞬は短い。
けれど、その一瞬を作るために、人は自分の経験も弱さも失敗も全部持って舞台へ上がる。
『ローワライ』の熱さは、そこにあるのだと思います。

