『ゲレクシス』は、『行け!稲中卓球部』『ヒミズ』などで知られる古谷実による、不条理ブラックコメディです。主人公は、バウムクーヘン作り一筋で生きてきた40歳の職人・大西たつみ。家族も恋人もなく、淡々とした毎日を過ごしてきた彼が、四十路にして初めて本気の恋をします。
ところが、大西が恋をした女性についてアルバイトの倉内ゆう子へ相談すると、どうも話がおかしい。自分には確かに見えている女性なのに、他の人にはその存在が認識されていないらしいのです。
勇気を出して女性へ近づいた大西を待っていたのは、甘酸っぱい中年の初恋などではありませんでした。説明不能な現象に巻き込まれた末、大西自身まで人間とは呼べない奇妙な姿へ変貌。そこから「モウソウ」や「正気」と名乗る元人間たちとともに、意味がありそうでまったく意味が分からない異世界のような場所をさまようことになります。
『ゲレクシス』の魅力とは?
『ゲレクシス』の最大の魅力は、「いったい何を読まされているんだ」という感覚そのものです。物語の始まりだけを見ると、40歳まで恋愛らしい恋愛をしてこなかった男が初恋へ踏み出す、少し切ない中年恋愛コメディのように見えます。
しかし、その予想はあっという間に裏切られます。女性の存在がおかしくなり、大西の身体まで変化し、気づけば日常から完全に切り離された理解不能な世界へ。しかも登場人物たちは、その異常な状況について妙に真面目な会話を続けます。
「モウソウ」「正気」といった名前も象徴的です。どう考えても何か深い意味がありそうなのに、それを明確に説明してくれるわけではありません。哲学的な作品なのか、全部ギャグなのか、それとも人間の孤独を描いた寓話なのか。読者自身が分からなくなっていきます。
その分からなさが不快ではなく、むしろ先を読みたくなるのが古谷実のすごいところです。「次のページでは何が起こるのか」という予測がほぼ通用せず、普通のストーリー漫画とは違う意味でページをめくる手が止まりません。
主人公の大西も絶妙です。若くて格好いい冒険者ではなく、バウムクーヘンを焼き続けてきた四十路の独身男性。そんな普通すぎる人間が、突然人ならざる存在へ変わり、訳の分からない世界へ放り込まれます。
それでも大西が特別な使命へ目覚めるわけではありません。「自分はどうなったのか」「人間へ戻れるのか」「元の生活へ帰れるのか」と戸惑いながら、とりあえず前へ進みます。この情けなさと現実感が、どれだけ世界が狂っても作品を人間臭くしています。
第2巻では、大西は同じように人間ではなくなった「モウソウ」と「正気」と行動し、人里離れた山中で全身毛だらけの純平君と出会います。純平君によれば、彼らのような存在は「人間に見られたら死ぬ」といいます。
最初はそんな馬鹿なと思う大西たちですが、実際に純平君が死んでしまったことで状況は一変。人間に戻りたいのに、人間へ近づくこと自体が危険という、とんでもなく理不尽な状態へ追い込まれます。
笑えるほど意味不明なのに、ときどき妙に孤独を感じさせるのも『ゲレクシス』らしいところです。人間ではなくなったことで、他人から見られることさえできない。自分が何者なのかを確かめるためには誰かの存在が必要なのに、その誰かへ近づくことができません。
古谷実はこれまでも、社会とうまく噛み合えない人間や、普通の人生から少し外れてしまった人物を何度も描いてきました。『ゲレクシス』ではそのテーマを、文字通り「人間ではなくなる」という極端なファンタジーへ変換しています。
原作漫画は『イブニング』で2016年から2017年まで連載され、コミックス全2巻で完結。第1巻が2016年9月23日、第2巻が2017年3月23日に発売されています。短い作品なので、一気に古谷実の奇妙な世界へ迷い込みたい人にもおすすめです。
ここからは、『ゲレクシス』のように、社会とうまく噛み合わない人間、普通の日常へ突然入り込む異常、不条理な笑い、人間の孤独や存在そのものを考えさせられる漫画を中心に5作品紹介します。
おすすめの作品を詳しく紹介
1.『わにとかげぎす』
古谷実によるヒューマンドラマです。主人公・富岡ゆうじは、深夜のスーパーで警備員として働く32歳。友達も恋人もほとんどおらず、一人で何となく人生を過ごしてきました。
ある夜、突然「友達が欲しい」と願ったことで、富岡の静かだった生活は少しずつ変わり始めます。隣人の羽田との出会いをはじめ、人との関係が増える一方で、危険な事件まで日常へ入り込んできます。
『ゲレクシス』で、孤独な中年男性が突然自分の人生を変えようとしたことで、想像もしなかった世界へ巻き込まれていくところが好きだった人には特におすすめです。普通の生活と異常な出来事の境目がどんどん曖昧になっていく古谷実らしさを楽しめます。

2.『サルチネス』
古谷実によるシニカルコメディです。14年間引きこもり続けてきた31歳の中丸タケヒコが、愛する妹の幸せのために自立しようと決意し、東京へ飛び出します。
しかし社会経験がほとんどないタケヒコは、周囲から見ればかなり変わった人物。仕事や人間関係へ挑戦しても簡単にはうまくいかず、本人の独特な理屈によってさらに奇妙な状況が生まれていきます。
『ゲレクシス』で、大西たちが真剣に話しているのになぜか笑えてしまう会話や、社会から少し外れた人間を描く古谷実の視線が好きだった人におすすめです。ファンタジー要素はありませんが、人間そのものの妙なおかしさでは非常に近い作品です。

3.『おやすみプンプン』
浅野いにおによる青春ヒューマンドラマです。主人公・プンプンとその家族は、周囲の人々とはまったく異なる奇妙な姿で描かれています。しかし作中の登場人物たちは、その姿について特に疑問を抱きません。
物語自体は、恋愛、家族、進路、孤独など極めて現実的な人間の人生を扱っています。だからこそ、異様なビジュアルと生々しい現実の組み合わせが独特の読後感を生みます。
『ゲレクシス』で、人間ではない奇妙な姿が単なるギャグ以上の意味を持っているように感じた人におすすめです。「この姿は何を表しているのだろう」と考えながら読むことで、登場人物の孤独や自己認識がさらに深く刺さってきます。

4.『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』
浅野いにおによるSF青春漫画です。東京上空に巨大な“母艦”が浮かび続ける世界で、女子高校生の小山門出と中川凰蘭たちは、それでも学校へ通い、友達と遊び、ごく普通の日常を送っています。
世界的には明らかに異常な出来事が起きているのに、人々は少しずつその状況へ慣れてしまいます。異常が日常化することで、むしろ普通の人間関係や社会の奇妙さが際立っていきます。
『ゲレクシス』で、「明らかにおかしい世界なのに登場人物たちが妙に普通に振る舞っている」という不条理さが好きだった人におすすめです。SFと日常の境目が曖昧になり、何が普通なのか分からなくなっていく感覚を楽しめます。

5.『ヒミズ』
古谷実による青春サスペンスです。中学生の住田祐一は、特別な人間ではなく「普通」に生きたいと願っています。しかし家庭環境や周囲の人々によって追い詰められ、そのささやかな願いすら崩れていきます。
『ゲレクシス』のようなファンタジーや不条理ギャグはほとんどありませんが、古谷実が繰り返し描いてきた「自分は何者なのか」「普通の人間として生きるとは何なのか」という部分を最も重く掘り下げた作品の一つです。
『ゲレクシス』を読んで、奇妙な生物や世界そのものより、その奥にある大西の孤独や「人間であること」への不安が心に残った人におすすめです。古谷実作品の暗い側面をさらに深く味わえます。

まとめ
『ゲレクシス』は、古谷実による不条理ブラックコメディです。バウムクーヘン職人として生きてきた40歳の大西たつみが、初恋をきっかけに説明不能な現象へ巻き込まれ、ついには人間ではない奇妙な存在へ変貌してしまいます。
孤独な中年男性と異常な日常なら『わにとかげぎす』、社会とうまく噛み合わない人物を笑いながら描く『サルチネス』がおすすめです。奇妙な姿と人間の孤独なら『おやすみプンプン』、異常が日常になった世界なら『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』、古谷実が描く「普通に生きること」の苦しさをもっと深く味わいたいなら『ヒミズ』も相性抜群です。
『ゲレクシス』には、すべてを説明してくれる分かりやすい答えはありません。それでも、大西たちが「自分は何者なのか」と考えながら訳の分からない世界を進む姿を見ていると、妙に自分たちの人生まで重なって見えてきます。意味があるのかないのか分からない。それでも生きている。そんな古谷実らしい不条理にハマった人なら、今回紹介した5作品にも簡単には言葉にできない人間のおかしさが待っています。

